竹鶴政孝の子孫とは?兄弟やリタとの関係が!留学したのは?

竹鶴政孝の子孫とは?

兄弟やリタとの関係が!

留学したのは?

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 竹鶴政孝の子孫とは?

竹鶴政孝さんはNHK朝の連続テレビドラマ

の「マッサン」でモデルとなった人です。

 

竹鶴政孝さんは子孫はいるのでしょうか?

 

マッサンこと竹鶴政孝さんは

1894年6月20日生まれです。

日本では明治27年という時代です

 

明治生まれの竹鶴さんは1918年に

スコットランドにウイスキーの勉強を

するために留学をしたんですが

 

その時に運命的な出会いをするんです

 

それが嫁になるというリタさんです

 

リタさんとは留学中に親交を深めて

1920年1月8日に留学先で結婚しています。

 

この時代のことなのでリタさんの家族

ほとんどに反対されて教会で

式をあげることができずに

登記所で竹鶴さんとリタさんだけの

2人だけの宣誓だけの式だったようです。

 

もちろん日本にリタさんを連れて

帰ってきたときにも実家の家族にも

竹鶴さんは大反対をされています。

 

最終的には竹鶴さんがいったん

分家するという形で

許された形になったようですね。

 

確かに現在でも国際結婚というのは

なかなか難しいこともありますし

反対されることも多い結婚に

なるんですが・・・

 

そんな昔の時代に外国人との

結婚を快く受け入れてもらえるはずも

なく、さらには周りからの冷たい

対応も容易に想像がつきますね。

 

竹鶴さんとリタさんの間には

子供が生まれることはありませんでした。

 

時代が時代なので子供が

できない身体的理由があったのかも

しれませんね。

 

しかし!

養子を迎えています

竹鶴威さんです。

竹鶴威さんは竹鶴政孝さんの

兄弟の延代さんの実子になります。

 

竹鶴威さんは歌子さんと

結婚をして竹鶴孝太郎さんが

生まれています。

 

実子という形での子孫繁栄は

なされていませんが

養子という形になりますね。

 

竹鶴政孝の嫁リタと兄弟との関係は?

竹鶴政孝さんは広島県賀茂郡で酒造業

や製塩業を営む竹鶴敬次郎の四男五女の

三男として生まれています。

 

竹鶴政孝さんに三男として

生まれているので、2人の兄がいます。

 

マッサンこと政孝さんが

ウイスキーづくりのために留学を

するときには2人の兄は酒造とは全く

無関係の別々の道に進んでいたんですね。

 

長男の兄は早稲田大学卒業後に

商社マンとなってマレーシアで

ゴム栽培に取り組んでいたんですが

うまくはいかなかったようです。

 

次男の兄は九州帝国大学を

卒業後に北海道炭礦汽船のエンジニア

となって常務になってからは札幌に

住んでいました。

 

リタさんは結婚をして日本に

きてからも9人の兄弟がいたので

大変だったでしょう。

 

兄弟が多いと協力して団結した

時には心強いものですが

全員が同じ気持ちで協力しあうと

いうこともなかなかないのが現状ですよね

 

認められるまでの生活は

本当に苦労を強いられたことが

想像できますのでリタさんの家族も

反対をしたんでしょうね。

竹鶴政孝の留学とは

竹鶴政孝さんは酒造業に生まれた

根っからの酒造りを考えた人間

だったのかもしれません。

 

政孝さんは大阪高等工業学校の酒造学科

で学んでいたんです。

 

卒業を春に迎えた1916年にその

時代の新しい酒ともいわれた

洋酒に興味をもっていました。

 

なんと!政孝さんは当時洋酒業界の雄

であった大阪市の摂津酒造を訪ねて

卒業を待たずに入社して

しまったんですね。

 

とにかく洋酒作りに命をかけていた

のかもしれません。

政孝さんは入社後に仕事という感覚

ではなかったのかもしれません

 

そのためか熱意が半端なく

相手に伝わったんでしょう・・・

 

入社後に主任技師に抜擢されたり

しているんです。

 

この時代にはアルコール殺菌が

徹底されていなかったために

ぶどう酒の瓶が店先で破裂する

事故が多発しているんです

 

しかし、竹鶴政孝さんが製造した

赤玉ポートワインは徹底した殺菌が

行われていたために全く割れることが

なかったんです。

 

時代的にも徴兵検査というものが

竹鶴さんにも訪れます。

 

検査官は竹鶴さんの履歴書を見たときに

アルコールの製造は火薬製造に必要な

技術と判断して入隊はさせず

今後も製造に従事させたほうがいいと

判断されたんですね。

 

結局今までの勉強してきた

技術や経験が軍隊への入隊を

まぬがれる理由になったわけです。

 

人生何事も頑張っておくと

いいということがわかりますよね。

 

その後留学ということが

政孝さんの人生に訪れます。

 

そもそもウイスキーがアメリカから

伝わってはいましたが

あくまでも欧米の模造品だったことで

純国産のウイスキーはつくられて

いなかったんです。

 

そのために1918年に

社長である阿部喜兵衛さんの命を

受けて竹鶴さんはスコットランドの

グラスゴー大学で有機化学と

応用科学を学ぶために留学をしました。

 

両親は政孝さんに酒造会社の跡を

継がせようと思っていたようで

かなり悲しんだようですね。

 

留学中にも竹鶴政孝さんは積極的に

醸造場を見学したり、頼み込んだ上に

実習を行わせてもらったり

みんなが嫌がっていた釜の掃除を

自ら買って出るなどの逸話が残っている

ことから留学したときにも自分の

ものにするために本気だったということが

日本のウイスキーの誕生につながったん

だなということがわかりますね。