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広岡浅子の子供や子孫や姉を家系図から!村岡花子との関係とは?

広岡浅子の子供や子孫や姉を家系図から!

村岡花子との関係とは?

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広岡浅子の子供や子孫や姉を家系図から!

広岡朝子さんは実業界でもあり

教育者でもあり社会運動家でもあります。

 

広岡朝子さんは1849年10月18日
生まれです。

 

1849年といってもピンときませんが
江戸時代後期(幕末)に生まれています。

 

1919年1月14日に満69歳という
年齢で亡くなられています。

 

広岡朝子さんはお姉さん達がいて
4女として
京都府の「油小路通出水」の
「小石川三井家六代当主」である
「三井高益」さんの元に生まれています。

 

広岡朝子さんは1867年17歳という
若さで結婚をしています。

 

現代社会では考えられませんが
当時は17歳という年齢での結婚はそう
珍しいことではありませんでした。

 

だからといってはなんですが
昔の女性は子供をたくさん産むタイミングに
恵まれたのでしょうね。

 

広岡浅子さんが結婚した相手つまりは
旦那さんにあたる人は・・・

 

大阪の豪商であった第8代加島屋
久兵衛門正饒の次男である
「広岡信五郎」さんです。

 

いわゆる旦那である広岡信五郎さんは
かなりのお坊っちゃまということで
仕事に対しての興味はいっさいなく

 

広岡浅子さんはそれを見てまずいと思い
簿記などを勉強して商いをする準備を
したそうです。

 

こんな時代にそう思う女性ってどれだけ
すごいのだと尊敬という気持ちでいっぱい
になりますね。

 

男性や女性というくくりではなく
活躍できる人が活躍すればいいという
考えを最初に日本人にもたせた女性といっても
いいぐらいの人かもしれません。

 

旦那にかわり事業を切り盛りして
倒産寸前の会社までを救うということを
成し遂げた広岡浅子さんですが・・・

 

旦那である広岡信五郎さんは
性格が温厚で人格者!
包容力があったという話なので自分を
差し置いてなにを〜!という感じではなく
がんばれ〜がんばれ〜という感じだった
のではないでしょうか。

 

成功できる男性もそうですが
女性の影にも暖かく見守ってくれる
伴侶がいるということですね。

 

そんな広岡浅子さんと旦那さんの間には
子供さんが1人いました。

 

この時代の女性としては子供さんが
1人というのは珍しいですね。

 

子供さんである娘さんの名前は「広岡亀子」さん

事業を拡大して会社が大きくなったことも
あって娘を嫁にやるのではなく

婿をとりました。

 

その婿というのが「広岡恵三」さんです。

 

広岡恵三さんは「一柳末徳」さんという
播麿小野藩の第11代目藩主
(最後の藩主の方です)
の次男になります。

 

娘である亀子さんの旦那の広岡恵三
さんは大同生命第二社長となります。

 

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広岡浅子の驚くべき行動力!

広岡浅子さんの功績には目を見張るものが

ありますね。

 

もともと幼い頃から勉強が好きだったんですが
女に勉強は必要無いと勉強をすると怒られて
いたそうです。

 

しかし、嫁いだあとに経営や簿記などの
勉強を重ねて加島屋の事業にも積極的に
参加していきました。

 

時代が時代ということもあり女性だからと
相手にされなかったために旦那が社長を
勤めていましたが経営を実際に行って
いたのは広岡浅子さん本人だったんですね。

 

現代の時代でも女だからといって
相手にされないということは少なからず
残っているのではないでしょうか・・・・

 

そういった偏見をなくしていかない限り
さらなる成長は見込めないでしょうね。

 

加島屋の事業を切り盛りしただけではなく
炭鉱開発にも着手したんですね。

 

筑豊の潤野炭鉱(福岡県飯塚市)
を買収したんです。

 

炭鉱再建を旦那から頼まれた浅子さん
でしたが、さすがに気の荒い炭鉱を
恐れて浅子さんもたじろいだそうですが
護身用に拳銃2丁を持ち、炭鉱の男達と
寝起きを共にして陣頭指揮などをとったそうです。

 

それだけの覚悟がないと多くのことを
成し遂げることができないんですね。

 

浅子さんに対して炭鉱夫達はなめてかかって
いたようですが、だんだんとすごい女性だと
わかっていきさらには労働条件の待遇まで
改善をしてもらい・・・
服従をして姉御と慕われるようになったそうです。

 

誰かに絶対的に慕われるということは
自身が身を削って頑張らなければダメだという
ことなんですね。

 

広岡浅子さんの義理の弟さんが加島銀行の
頭取となったんですが
浅子さんはとにかく数字に強くて
銀行経営にも敏腕を振るったそうです。

 

だんだんとお金だけが仕事ではないと
感じ始めた頃に事業から離れて
少女の頃に学問を許されなかったことを
ヒントに「女性のための高騰教育」を
実現しようとしました。

 

1901年に日本女子大学校を開校したんです。

 

このような女性がいたからこそ
現在の優秀な女性を多く輩出するような
日本になったんでしょうね。

 

現代に生きる女性である私たちもまだまだ
困っている弱い立場の女性や子供たちと
いった人々に目を向けて未来につながる
なにかをしなければならないのだなと
感じます。

広岡浅子と村岡花子の関係とは?

広岡浅子さんと村岡花子さんに
関係があったといわれています。

 

村岡花子さんといえばNHK朝の連続
テレビ小説「花子とアン」で取り上げられて
いた人物です。

 

そして、広岡浅子さんもNHKの朝ドラの
主人公になる人物なんですね。

 

そんな2人にどんな関係があったのでしょうか?

 

広岡浅子さんは1849年生まれです

 

一方・・・

 

村岡花子さんは1893年生まれです
2人の年齢差は44歳あったということです。

 

広岡浅子さんは日本女子大学を設立していますが
1914年から亡くなる前年まで毎年夏に
避暑地として別荘を建設していたんですが
そこで若い女性を集めて合宿勉強会を主宰
していたんです。

 

その参加者の一人に村岡花子さんが
いたそうですよ。


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