石ノ森章太郎の姉の死因が驚愕の!姉が好きだったのはトキワ荘の・・・
石ノ森章太郎の漫画家へのストーリートキワ荘
石ノ森章太郎さんは1938年1月25日
生まれです。
宮城県登米郡石ノ森町出身です。
本名は「小野寺章太郎」
姉二人弟二人の五人兄弟として育ちました。
当初は映画監督を志していましたが
3歳上の姉は生来病弱で外出もままらないため
学校での出来事や外出の見聞などを
絵に描いて見せていたことが漫画家になる
原点だったようです。
1950年中学生になって手塚治虫に
ファンレターを出したところ返事が戻って
きたことでますます漫画に夢中になったそうです。
中学2年生のときに4コマ漫画を
「毎日中学生新聞」に投稿したところ
入選!以降投稿マニアとなりました。
1953年の高校生のころに「漫画少年」
への投稿仲間を集めて
「東日本漫画研究会」を設立しています。
高校2年生の春に手塚治虫さんより
仕事を手伝って欲しいとの電報が届き
「鉄腕アトム」のアシスタントを務めました。
高校在学中の1954年に手塚治虫さんの
仲介で「漫画少年」でデビューを果たします。
高校卒業と同時に上京をして
「トキワ荘」に移り住みました。
藤子不二雄さんは赤塚不二夫さんらと
トキワ荘に長く住み続け、売れっ子に
なったあとまでも最も長くトキワ荘に
住み続けた方でした。
1964年に手塚治虫さんの仲人により
結婚をしています。
その後スター漫画家としての地位を
確率しました。
1985年に画業30年を機に
「石森章太郎」から
「石ノ森章太郎」に改名をしています。
もともとペンネームは故郷の石森町に
由来するもですが
「石森」と書いて「いしのもり」とは
誰も呼ばず初心に戻る意味をこめて改名を
行ったそうです。
1998年リンパ種による心不全のために
60歳という若さで亡くなられています。
石ノ森章太郎の姉の死因が驚愕の!
石ノ森章太郎さんの姉は幼い頃から
病弱でしたが石ノ森さんのことを影で
支えていたようですね。
漫画家になるために上京することを
父親がとめたときにも姉が両親を説得
するなどの応援をしてくれたそうです。
さらには、病気治療もかねてお姉さんも
一緒にトキワ荘へと移り住んだそうです。
お姉さんは石ノ森章太郎さんのことが
心配でお世話をしたい気持ちもあった
そうです。
とても美人なお姉さんでトキワ荘では
マドンナ的存在でした。
お姉さんがいなければ石ノ森章太郎さん
という漫画家は存在しなかったと
いわれるぐらい重要な人物だったそうです。
喘息持ちのお姉さんはたびたび体調を
崩すことも多かったようです。
24歳になる前の日に亡くなられています。
朝、石ノ森章太郎さんの部屋で突然
姉が喘息の発作を起こしました。
普段よりもかなりひどい状態だったようです。
「石ノ森章太郎さん・赤塚不二夫さん・
水野英子さん」の三人で付き添い
タクシーで行きつけの病院に行ったそうです。
病院に連れて行きいつものように
よくなるだろうと思った石ノ森章太郎さんは
その後、二人を誘い映画を見に行ったそうです。
しかし・・・
映画を見終わって帰宅すると病院から
「姉が亡くなった」という知らせが入りました。
死因は心臓発作でした。
医師が喘息の発作を抑えるためにモルヒネを
過剰投与した結果、心臓が耐えられなかった
ということのようです。
もし現代の医療であれば救えたかもしれない
と思うといたたまれないですね。
お姉さんはトキワ荘のメンバーでもあり
笑ゥせぇるすまんの作者でもある
「藤子不二雄A」さんが好きだったそうです。
弟である石ノ森章太郎さんに
「どう思う?」と相談をしたところ
「何言ってんだその体で。体を
治してからにしろ」と言われてその場で
泣いてしまったそうです。
胸がしめつけられる思いです。
石ノ森章太郎さんは漫画家になる自分の
最大の理解者と姉のことをしたっていたので
姉の死後は作風が変わるぐらいのショックを
受けていたようです。
3年後には姉の死をひきづっていたこともあり
逃避行的な旅もしていたようです。
あまりにも若い年齢での死・・・・
そして自分の理解者という大事な存在・・・
どれだけ苦しく辛かったことかと想像
だにできません。