クリスタルキングの不仲説や死亡説の衝撃の真相とは!

クリスタルキングの不仲説での脱退理由が衝撃!死亡説が出た理由とは!

クリスタルキングの経歴

クリスタルキングは1971年から活動を開始したロックバンド。

7人組ロックバンドとして活動していた時期もありますが、現在はムッシュ吉﨑さんによるソロプロジェクトです。

累計150万枚以上のミリオンセラーである博多の街を唄った「大都会」をはじめ、75万枚の売り上げを記録した「蜃気楼」や「セシル」、映画「瀬戸内少年野球団」の主題歌「瀬戸内行進曲 (IN THE MOOD)」、アニメ『北斗の拳』主題歌「愛をとりもどせ!!」といったヒット曲があります。

ムッシュ吉﨑さんの低音ボーカルと、田中昌之さん(1998~2002年までは内田聖治)によるハイトーンボーカルの組み合わせによるツインボーカルを特徴としました。

クリスタルキング元メンバー

* 田中 昌之【1973-1974、1975-1986, 1995-1998】- ボーカル
* 内田 聖治【1998-2002】- ボーカル
* 山下 三智夫【1975-1986】- ギター
* 川上 聡【1986-】- ギター
* 上坂 哲史 – ギター
* 福田 彰一郎【-1998】- ギター
* 中村 公晴【1975-1998】- ピアノ
* 今給黎 博美 – キーボード
* 野元 英俊【-1986】- ベース
* 尾町 英司【-1993】- ベース
* 秦 好樹【1993-1999】- ベース・プログラミング
* 金福 健【-1983】- ドラム
* ファンキー末吉【1984】- ドラム
* 高木 和好【1985-】- ドラム
* 高岡 丈二【-1998】- ドラム



デビューまで

1971年(昭和46年)、ムッシュ吉﨑を中心に九州で結成されました。佐世保の米軍キャンプのクラブや、米兵が集まる佐世保市内のディスコで米兵相手にアメリカ音楽を演奏したり、福岡のディスコ・クラブでも活動していました。

1973年(昭和48年)には田中昌之が参加しましたが、1974年(昭和49年)に一度目の脱退をしました。

1975年(昭和50年)からは田中昌之が再び参加し、中村公晴・山下三智夫も加入しました。低音の吉崎と高音の田中によるツインボーカルで、九州を中心に徐々に人気を獲得していきました。

1976年(昭和51年)には、カバー曲「カモン!ハッスル・ベイビー」でテイチク(テイチクBLACKレーベル)よりデビューしました。

世界歌謡祭

1979年(昭和54年)、世界歌謡祭グランプリを受賞したことをきっかけにキャニオン・レコードより再びデビューしました。11月21日にリリースされたデビューシングル「大都会」は、累計150万枚以上のミリオンセラーを記録しました。

1980年(昭和55年)に続いてリリースされた「蜃気楼」も資生堂のキャンペーンソングに起用され、75万枚のヒットを記録しました[7]。『ザ・ベストテン』では「大都会」と「蜃気楼」で2曲連続1位を獲得しました。また、司馬遼太郎の歴史小説を原作としたNHK連続テレビドラマ『風神の門』の音楽も担当しました。主題歌「時間差」は話題となりましたが、レコード化はされませんでした。なお、その他の未発売楽曲には「Ten Years Ago」があります。同年の年末には『第31回NHK紅白歌合戦』に出場し、「大都会」を披露しました。

1983年(昭和58年)末には、ドラムの金福が脱退しました。サポートドラマーとしてファンキー末吉が参加しました。

1984年(昭和59年)6月には、阿久悠原作の映画『瀬戸内少年野球団』の主題歌を担当しました。また、同年10月に発表されたテレビアニメ『北斗の拳』の主題歌「愛をとりもどせ!!」は、50万枚のセールスを記録しました。

クリスタルキングの不仲説の真相とは


クリスタルキングは1970年代から80年代にかけて数々のヒット曲を生み出し、特に「大都会」や「愛をとりもどせ!!」で広く知られるロックバンドです。しかし、その成功の裏側ではメンバー間の不和が常に存在していました。

最大の要因は音楽性と主導権をめぐる対立です。リーダー格のムッシュ吉﨑さんを中心に活動が展開される一方で、実際の作曲やボーカル面で大きな役割を果たしていた山下三智夫さんや田中昌之さんらとの間に意見の食い違いが生じました。

特に田中さんの高音ボーカルはバンドの代名詞となるほどでしたが、音楽的方向性や待遇をめぐって対立し、結果的に脱退と復帰を繰り返すことになります。

また、バンドは人数が多く、それぞれが作曲や演奏に強い個性を持っていたため、楽曲制作における意見の衝突も絶えませんでした。売れれば売れるほど責任や注目が集中し、ギャラ配分や活動方針など現実的な問題も表面化しました。

80年代半ば以降、メンバーの入れ替えが頻発し、やがてオリジナルメンバーはほとんど離脱することになります。

現在も「不仲バンド」というイメージが語られるのは、当時の報道やメンバー自身の発言によるところが大きいですが、裏を返せばそれだけ強烈な個性が集まった証でもあります。

音楽的才能のぶつかり合いが、時に衝突を生みつつも唯一無二の楽曲を生み出したことは間違いありません。

クリスタルキングの不仲は悲劇であると同時に、その栄光の一部でもあったのです。

クリスタルキングの死亡説の真相とは




クリスタルキングを検索すると「死亡」というキーワードが出てきてドキッとしますが・・・クリスタルキングの元メンバーの方々が亡くなったという報道はありません。

しかし、主要メンバーとして活躍をしていた田中昌之さんが過去に重篤な病気で倒れたことがあります。

2011年3月21日深夜、自宅でマネージャーと次回ライブの打ち合わせ中、突然激しい胸の痛みに襲われています。幼少期から不整脈を抱えていたものの、いつもは深呼吸で軽快していたため、今回は異変と察し、マネージャーを通じて救急車を呼んだそうです。

搬送中に心拍が停止し、AED(自動体外式除細動器)でも3度通電しても回復しなかったといいます。しかし4度目の通電で奇跡的に蘇生。病院の対応も早く、治療として脚の付け根からカテーテルを挿入し、詰まっていた冠動脈にステントを4本装着する処置が行われました。数日後には一般病棟に移り、比較的早期に退院を果たしています。

医師からは、長年の「ヘビースモーカー生活(1日2箱)」が最大の要因ではないかと厳しく指摘されたそうです。これをきっかけに、田中さんはその日以来、一切の喫煙をやめたといいます。

田中さんにとってこの心筋梗塞は「人生の転機」とも言える出来事でした。以後、時間の尊さをより実感し、「歌える限り、1秒たりとも気持ちを込めて歌いたい」という姿勢を貫いています