柿谷曜一朗はなぜ消えたのか?引退した衝撃の理由とは

柿谷曜一朗はなぜ消えたのか?引退した衝撃の理由とは

柿谷曜一朗の経歴

柿谷曜一朗さんは元プロサッカー選手として活躍をしていた方です。

柿谷曜一朗さんは1990年1月30日生まれで、大阪府大阪市出身です。

4歳からセレッソ大阪の下部組織で育ち、スクールからプロまでセレッソ一筋。追手門学院大手前高等学校在学中の2006年、クラブ史上最年少の16歳でトップチームとプロ契約を結び、C大阪と業務提携しているウィザス高等学校(現 第一学院高等学校)に転校した。同年5月には短期海外研修として、アーセナルやインテル・ミラノのユースの練習に参加をしていました。

2006年9月に開催されたAFC U-17アジア選手権では唯一、プロ選手として大会に出場し、日本の13年振り2度目の優勝に貢献しています。

11月26日のJ1第33節大宮アルディージャ戦で、Jリーグ初出場を果たしています。


2009年には素行に問題が出始めて練習への遅刻を繰り返すようになり、第3節栃木SC戦終了後、クルピ監督から名指しでプロ意識の欠如を指摘された。

2009年6月18日に徳島ヴォルティスへの期限付き移籍が発表されています。

徳島ヴォルティスへの移籍後は人間性としても変化の兆しがあって柿谷曜一朗さんの素行問題も徐々に改善されました。

2012年1月6日、レンタル移籍期間満了により、C大阪への復帰が発表されました。

2013年は、第1節新潟戦からフォワードとして起用され、自らの決勝点により、クラブ14年ぶりのJ1開幕戦勝利をもたらしています。

7月、東アジアカップ2013に出場する日本代表に初選出された。同大会では決勝の韓国戦で決勝点を決め日本の初優勝に貢献した。また、得点王に輝いています。

その後、欧州の強豪クラブのオファーを断りチームに残りました。理由はチームに移籍金を残すためだったそうです。

知名度が上がりサッカーという枠を超えた活躍をし年賀はがきのテレビCMへの起用が見られました。

2014年7月7日、同年7月16日付でスイス・スーパーリーグのFCバーゼルへ完全移籍することが発表されました。

2016年よりC大阪に完全移籍により加入した。なお、バーゼルとは昨夏から4年契約を結んでいたが、1年でのJ1昇格に失敗したC大阪側が復帰を要請した事と柿谷が出場機会を求めていた事でクラブ間交渉が成立したと思われます。

2021年シーズンより、名古屋グランパスへ完全移籍。

2023年1月6日、J2の徳島ヴォルティスに完全移籍で加入することが発表されました。

2025年1月18日、現役引退を発表。柿谷曜一朗さんは「体が動かなくなるまでサッカーがしたかったのですが叶いませんでした」とコメントをしています。

今後はタレント活動をメインとすることを表明しています。

柿谷曜一朗はなぜ消えたのか?引退した衝撃の理由とは


柿谷曜一朗さんはサッカーでの活躍から国民的認知度が上がりかなりの活躍を見せていましたが「なぜ消えた」と思う方が多いようですね。

その理由として引退をした年齢が35歳ということで日本代表は厳しいとしてもまだまだ現役でやっていける年齢だったということもあります。

柿谷曜一朗さんは10代の頃から「天才」「ジーニアス」と言われて数多くのスーパープレーを披露してきました。

2024年1月に引退会見を実施していますが、前年の12月まではまだやろうと思っていたそうです。ただ、「キレイに終わりたいと思ってるやつが若くて上に行こうと思ってる選手の中に入ったら彼らにも監督にも失礼だし、邪魔やなと。別にカテゴリーは気にしなかったし、引退する前にセレッソに帰ってきてっていう話があったりなかったりもしたけど、やっぱりどこかで申し訳なさがあった。それでキッパリやめるべきかなと思ったんです」と語っています。

今のサッカーはハードワークや強度、献身性、戦術重視の方向に進んでいて柿谷曜一朗さんのような自由で尖った個性を持つ人材が生きにくくなっているという理由も一因にあるかもしれませんね。