
岸惠子の娘との別れや元夫のイヴ シャンピの再婚相手の真相とは
岸惠子の経歴
岸惠子さんは女優や作家として活躍をしている方です。
岸惠子さんは1932年8月11日生まれで、神奈川県横浜市出身です。
高校在学中に小牧バレエ団に通っています。神奈川県立横浜平沼高等学校卒業
もともとは小説家志望で川端康成を耽読した。高校時代に観た『美女と野獣』に魅せられ、映画に興味を持ち、田中敦子(小園蓉子)と松竹大船撮影所を見学するうちに、吉村公三郎にスカウトされたそうです。
当初はスカウトを断ったそうですが「本物の女学生が欲しい」と頼みこまれたために1本だけの約束で1951年の大学入学までという条件で松竹に入社をして映画「我が家は楽し」でデビューをしています。
デビュー作がヒットをしてそのまま女優となっています。
1953年から1954年にかけて映画『君の名は』3部作が大ヒット。主人公・氏家真知子のストールの巻き方を「真知子巻き」と呼んでマネる女性が出るほどでした。
真知子巻きは岸惠子さんが北海道のあまりの寒さに、私物のストールを使用したアドリブだったそうです。
1954年に岸惠子さんと久我美子さんと有馬稲子さんで「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立しています。
1955年6月18日、松竹、東和映画、にんじんくらぶの三者は話し合い、日英合作映画となる『風は知らない』の主演を岸に決定しました。同年の12月31日に岸惠子さんは英語をマスターするためにロンドンへ発ちました。
1956年1月、プロデューサーを予定していたアレクサンダー・コルダとリーンとのあいだで意見が合わなくなり、映画の制作は延期されたそうです。
同時期に松竹は来日中のフランスの映画監督イヴ・シャンピと日仏合作映画『Typhon sur Nagasaki(長崎の台風)』の製作の準備をしていました。
イヴ・シャンピさんは映画祭で「亡命記」を見ていて松竹を通じて岸惠子さんに出演依頼をしています。
岸惠子さんはイヴ・シャンピさんの「悪の決算」が好きで2度も見ていたために出演を快諾しました。
岸惠子さんはそのままフランス語の習得のためにパリに移りました。1956年9月、『忘れえぬ慕情』のタイトルで日本で公開されました。
1956年正月、浅草の国際劇場で行われた『松竹スタア・パレード 松竹大行進』
松竹歌劇団の看板として小柳久子さん、千草かほるさんがご出演。
佐田啓二さん、岸惠子さん、有馬稲子さん以下、お馴染み松竹映画スターの皆さん。
女性は皆さんご長寿ですね! pic.twitter.com/8mwPbWXTC8— 小針侑起 (@peragoro22) December 28, 2024
岸惠子と元夫のイヴ シャンピの再婚相手の真相とは
1957年4月29日、日本を出国。同年5月、イヴ・シャンピさんと結婚しています。挙式はフランスで、川端康成が立会人となりました。1967年に渡仏、以降はパリに居を構え、フランスと日本を往復しながら女優を続け、「空飛ぶマダム」と言われました。
今日の日経の「私の履歴書」。
今月は岸惠子さん。岸惠子さんとイブ・シャンピさんとの結婚式には、あの「うたかたの恋」のダニエル・ダリューも出席したそう。
右の写真は、「うたかたの恋」でシャルル・ボワイエと一緒のダニエル・ダリュー。 pic.twitter.com/qgwK4nhP5W— 即位 (@4im8hJV7aYKpppY) May 18, 2020
1963年、1人娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピ (Delphine Ciampi) を出産し、二人で週刊誌のグラビアを飾ったこともあります。
1975年、イヴ・シャンピさんと離婚をしています。
岸惠子さんは恋多き女として知られていました。俳優の鶴田浩二さんと共演したのは18歳のときですぐに深い関係になりました。
2人とも松竹の所属だったのですが鶴田浩二さんが独立プロを設立して岸惠子さんに第一作目のオファーを出したのですが松竹が許さず、岸恵子さんは辞表を提出しています。
結局、オファーに関しては松竹が折れて共演となったのですが松竹は男女の関係だった岸惠子さんと鶴田浩二さんを良く思わずに別れさせようと必死でした。
鶴田浩二さんは関係を負担に感じるようになって「あなたは私とはあまりに違いすぎる」という手紙を残して失踪しています。
その後、岸惠子さんは共演した俳優達と次々に浮名を流したのですが心にぽっかりとあいた穴を埋めることはできなかったそうです。
そんな時に出会ったのがフランス人監督のイブ・シャンピさんでした。
結婚生活は18年にも及びうまくいくように思われましたが、だんだんと格差が広がっていく夫婦関係に亀裂が生まれ始めました。
イブ・シャンピ監督は次第に才能が枯渇していき70年代に入ると映画も撮れなくなりました。夫のイブ・シャンピ監督はイタリア人の愛人の元に走ってしまいます。
離婚原因としては愛人だけが理由ではなくそれまでに色々な事の積み重ねがあったと岸惠子さんは語っています。
フランスでは協議離婚が認められていないために2人が同意してもすぐに離婚が成立するわけではありませんが裁判所に申請して9ヶ月という異例の速さでの離婚成立となりました。
離婚当初は浮気相手の女性を憎く思ったりすることもあったそうですが月日が経過していくうちに夫が浮気に走ってしまったのは背徳感よりも深い孤独を紛らわすための我儘が勝ったからなのだろうと解釈するようになったそうです。
離婚をしたことを岸惠子さんは後に後悔することになったそうです。1日いや後半日でも深く考えることはできなかったのだろうかと。
元夫のイブ・シャンピさんは離婚後ほどなくして再婚をしたようです。岸惠子さんと婚姻関係中に浮気をした相手です。再婚相手の方は純粋なユダヤ人とだけ明かされているようですね。
そして、再婚から7年後の1985年にイヴ・シャンピさんは心不全で亡くなられています。
岸惠子さんの自伝。僕は映画に疎いし、出てくるのが昔の映画俳優だったりするので、あまり楽しめなかったかな。 #読書 #91歳5か月 pic.twitter.com/ELDDcxF6w5
— Namba (@t_namba) April 3, 2025
岸惠子の娘との別れとは
岸惠子さんとイヴ・シャンピさんの間には娘さんがひとりいます。
離婚後に娘さんの親権は岸惠子さんが持ちましたが、当時の日本の法律で娘さんの日本国籍が取得できなかったのです。
その後法律は改正されたのですが、生後3ヶ月以内にパリの領事館に出生届を提出していなかったために岸惠子さんの戸籍に入っていなかったようです。
離婚後にはフランスで暮らしていたために問題はなかったそうですが、娘さんが日本に来る時に日本国籍を持っていなかったために毎回期限付きのビザを取得しなければなりませんでした。
あるときビザが2日切れていたことがあった際に入国審査官から「次回同じことをすれば刑務所に入ることになる」と言われて娘さんは「日本は私の国ではないことがわかった」と語り、岸惠子さんはとても辛い思いをしたようですね。
離婚後もフランスと日本を行き来しながら女優業を続けていた岸惠子さんですが、娘さんが10歳になったときに突如失踪するという事件が起こったそうです。
娘さんは父親の浮気を知り深く傷ついて思い悩んだ末に行方をくらませてしまったようです。
2019年のインタビューで岸惠子さんは娘さんが結婚したことと実の母親が亡くなったことを機に、両親が遺した日本の家で暮らすようになったそうです。
現在はパリにある家は事務所として活用をして生活は日本に重きを置きフランスと行き来をする生活をしているそうです。岸惠子さんは女優業をセーブしエッセイストとして活躍をすることが増えています。
娘さんはフランスの名門大学であるソルボンヌ大学を卒業した後にバンド活動を行って、現在はオーストラリア出身の作曲家である「ウォーレン・エリス」さんと結婚をして2人の子供さんに恵まれています。