田原総一郎の病気が癌という衝撃の真実とは?娘との関係は画像あり

田原総一郎の学生時代や過去の仕事とは?

田原総一郎さんはジャーナリストや評論家
ニュースキャスターなどで活躍をしている方です。

 

1934年4月15日生まれなので、2017年には
83歳になります。

 

滋賀県彦根市出身で、近江商人の末裔だそうです。

 

第二次世界対戦中は一般的な軍国少年で
海軍兵学校を経て海軍には行って特攻隊員として
戦闘機にのり敵の軍艦にぶつかって死ぬというのが
夢だったようです。

 

それまで通っていた先生は戦時中にはお国の
ためにと戦争を肯定していましたが、戦後には
同じ先生が今まで行っていた戦争は間違いという
教えに180度かわり世の中に絶対はないと
感じたようですね。

 

「滋賀県立彦根高等学校」を卒業し作家を志して
上京して日本交通公社で働きながら
「早稲田大学第二文学部日本文学科(夜学)」
に在籍をしました。

 

そんな折、同世代の石原慎太郎さんや大江健三郎
さんの作品を読んで「これは全く敵わない」と
作家を目指すことを断念しジャーナリストになる
方向へと切り替えたようです。

 

3年間でほとんど通っていなかった二文を辞め
1956年「早稲田大学第一文学部史学科」に
再入学をして1960年に卒業をしています。

 

NHKや朝日新聞、日本教育テレビなどの
マスコミを手当たり次第受けたようですが
どこもだめで11社目の岩波映画製作所に入社
しました。
当時はカメラマン助手を務めています。

 

1964年に東京12チャンネル開局と共に入社
をしました。

 

当時はまだまだ東京12チャンネルはメジャー
ではなかったために過激な題材をもとに
話題作りをして注目を浴びることになりました。

 

1971年にはATG映画で「あらかじめ失われた恋人
たちよ」の制作・監督を務めました。

 

1975年矢崎泰久さんらと共に日本ジャーナリスト
クラブを立ち上げました。「のんすとっぷ24時間」
という討論会を行っていますがこのイベントが
「朝まで生テレビ」の原型となっています。

 

1976年には原子力船むつ問題を扱った映画
「原子力戦争」をATG制作で映画化・公開をしています。

 

1977年1月に東京12チャンネルを退社しフリー
となってジャーナリストへの道へ進むことに
なりました。

田原総一郎の病気が癌という衝撃の真実とは?

田原総一郎さんは2013年に自宅近くで倒れて
緊急入院をしています。

 

原因は「憩室炎」(けいしつえん)
憩室炎とは?
大腸の粘膜にできるくぼんだ袋状の憩室が
感染したり炎症を起こす疾患です。
炎症が軽いときには服部た軽く周期的に痛んで
下痢や便秘をします。炎症が進むと腹痛に加えて
発熱や血便がでます。ときに憩室内の動脈が破れて
大出血することがあります。

 

田原総一郎さんは熱が38度ぐらいあったのに
北海道にいったり朝まで生テレビをやったりした
後に睡眠薬を飲んで寝たようです。

 

寝て起きた後に体がおかしいと思ったんだ
そうですが自分の体を確かめようと外を歩いて
倒れてしまったようですね。

 

基本的には大忙しで働いているので休みは1年に
1日ぐらいしかないのだとか・・・

 

癌などの病気にはかかったという事実は
ないようです。

田原総一郎の娘との関係とは?

田原総一郎さんは2度の結婚を経験しています。

前妻は乳がんで亡くなっています。

その後、ダブル不倫をしていた田原節子
さんと1989年に結婚をしています。

 

しかし2度目の嫁も乳がんになり
2004年8月に多臓器不全で亡くなられています。

 

節子さんが乳がんと宣告され亡くなられた
ときには二度自害を考えたと語っているようです。

 

そして、娘さんが一人います。

 

 

田原敦子」さんでテレビ朝日の
プロデューサーをしています。
担当番組は「徹子の部屋」や「世界の車窓から」
などですね。

 

病気になったときに田原総一郎さんは娘の
ありがたみを感じたと語っているので献身的に
看病してくれたんでしょうね。

田原総一郎の人との関わり

田原総一郎さんは過去から現在まで多くの
人と関わり取材をしてきています。

もはや人と会うことが好きで趣味の域に
達しているようですね。


多くの人と関わり話をしてきたなかで
人生におけるヒントを多く得ているようで
著書を出版されています。